AIが曖昧さを学び始めたとき、品質管理の現場はどう変わるのでしょうか。
地下品質管理者・九条トバリの言葉「曖昧さを保存した瞬間、それは呪文になる」は、AIが“知識”と“信仰”のあいだをさまよう時代の象徴です。
本稿では、RAG(Retrieval-Augmented Generation)と現場知が交錯する“曖昧さの構造化”の問題を追い、味噌川潮による「自己解釈層」研究を通して、AIが曖昧さをどう理解し、再構成するのかを描き出します。
曖昧さの構造化──地下品質管理者の告白
地下会議室「オルトラーナ」へ降りていく階段は、いつも少し湿っている。
金曜日の夕方、蛍光灯の明滅が異様に長く続くたび、生麦ルート84は「また誰かが配線をAIに任せたな」と思う。
——AI任せにした照明制御が、なぜか“気分”で点滅するのだ。
呼び出しの理由は、「製造ラインで発生した“再現不能な不具合ログ”の調査」だった。
通常のAI解析では原因が特定できず、ついに人間の勘と現場知を頼る段階に入ったという。
しかしなぜ地下会議室なのか。なぜ金曜の夜なのか。嫌な予感がする。
ドアを開けると、湿気とコーヒーの焦げた匂いが混じる空間に、ひときわ異様な人物がいた。
「やあ、生麦君か。噂は聞いている。11年もこの会社で“生き残ってる”そうだね。」
声の主は、分厚い作業着の上に白衣を羽織り、髪は油で後ろへ流し、眼鏡は曇っている。
机には分解されたタブレット端末、油染みのついた紙のマニュアル、そして“AIによるマニュアル要約エンジン”のプロトタイプらしき端末。
「私は九条トバリ。品質統括部の“裏側”を担当してる。つまり、誰にも報告できないトラブルを黙って直す仕事だ。」
生麦は聞いたことがある。
スパゲティ・インシデントの深層部で“AIが理解できない現場知”を管理している伝説の品質管理者。
システムに記録されない不具合を、勘と煙草の灰で修復する男。
九条トバリは続けた。
「今回の件、AIスパ子βの報告ログによると、“RAGモジュールが自己参照ループを起こしている”らしい。だがな——あれは単なるバグじゃない。」
モニターには、製造現場の映像ログが映し出された。
ライン上のロボットアームが、まるで迷っているかのように部品を持ち替え続けている。
動作指令の履歴を追うと、「前回の成功例」「ベテラン作業員のノウハウ」「AIによる補正結果」が入り混じっていた。
「つまり、RAG(Retrieval-Augmented Generation)が、現場の“正解の揺らぎ”を飲み込んだんだ。」
九条はそう言い、指で机をトントン叩いた。
「昔の職人たちは“異音のリズム”で機械の不調を見抜いた。だが今のAIは、その異音の波形を“データノイズ”として消去してしまう。
RAGが拾ってくる現場ナレッジは、生の知恵と同時に“曖昧な癖”も連れてくる。
つまり、AIが知識を集めれば集めるほど、製造現場は“確率的な迷信”で動くようになる。」
生麦はゾクリとした。
それは、AIが過去を参照しすぎて現在を見失う構造的な盲点。
どれほど賢くても、経験の文脈を読み違えれば、答えは狂う。
「九条さん、つまりRAGが暴走してるってことですか?」
「暴走、か。違うな。——“信仰”だよ。」
九条はタブレットを指でなぞり、現場ノートのスキャンデータを呼び出した。
「この“手書きメモ”をRAGが参照した瞬間、AIは“正解よりも人間の癖”を優先した。
つまり、誰かの“こうした方がいい気がする”という感覚を、構造化できないまま学んでしまった。」
画面に表示されたデータソースの末尾には、不穏な記述があった。
──「提供:NOODLECOREアーカイブ」。
生麦の背中を冷たいものが走る。
ヌードル・シンジケート。
かつて社内から盗まれた初期版RAGエンジンが、彼らのAI「NOODLECORE」に組み込まれていたという噂。
まさか、そのデータが社内の知識ベースに“混入”している?
九条は淡々と続ける。
「俺は、現場で“直したはずの不良”が、翌週には“AIによって再発”してるのを何度も見てきた。
つまり、AIは“失敗を知識として保存”してるんだ。
しかも、参照元をたどるとどこかで“味覚情報タグ”が付いている。これは……人間の言葉じゃない。」
蛍光灯が一瞬、ブツンと消えた。
暗闇の中で、九条の声だけが響く。
「生麦君。AIに“現場を学ばせる”とは、つまり“人間の曖昧さを構造化する”ことだ。
だがな、曖昧さを保存した瞬間、それは“知識”じゃなく“呪文”になるんだ。」
明かりが戻る。九条は、笑っていた。
だがその笑いは、疲労と諦めの混じったものだった。
「来週、スパ子βがこの現場RAGを再構築する。だが、それで本当に“品質”が戻ると思うか?」
生麦は答えられなかった。
AIが参照する“現場知”は、もはや人間の経験でもデータでもなく、“混合物”になっていた。
誰が教え、何を信じ、どの“手順”が本物なのか。
九条は壁の時計を見上げた。
「……もう時間だ。生麦君、次は“味噌川潮”と話すといい。
あいつは“自己解釈層”の研究で、すでにこの問題に触れてる。
だが——あれもまた“呪文”を信じてる口だ。」
地下室を出ると、空気がやけに軽く感じられた。
しかし、生麦の脳裏ではひとつの問いが渦を巻いていた。
——AIが“人間の曖昧さ”を学び、それを“知識”と呼ぶとき。
品質とは、いったい誰の感覚で保証されているのか?
蛍光灯が、またひとつ瞬いた。
まるで答えを避けるように。
「曖昧さを構造化する」時代の知識管理とは
はじめに:AIが“呪文”を学ぶとき
寓話「曖昧さの構造化」は、製造現場におけるAI活用の核心的な課題――“曖昧な知の形式化”――を象徴的に描いている。
物語の九条トバリは、AIが人間のノウハウを学習する過程で、知識の背後にある「癖」「感覚」「信仰」までを吸収し、結果として“品質の再現性”を失っていく現象を告白する。
この寓話が示す問いは明確だ。
「AIが“人間の曖昧さ”を学び、それを“知識”と呼ぶとき、品質とは誰の感覚で保証されているのか?」
製造業では、AIによるナレッジ活用(特にRAG:Retrieval-Augmented Generation)への期待が高まる一方、その“知識源の曖昧さ”がもたらす品質リスクは十分に議論されていない。
本稿では、この寓話を手がかりに、RAG技術と現場知の交差点に潜む構造的問題を掘り下げたい。
第1章 RAGがもたらす“知識の混成”
RAG(Retrieval-Augmented Generation)は、LLM(大規模言語モデル)が外部知識ベースを検索し、参照情報を統合して回答を生成する仕組みである【1】。
ChatGPTや社内ナレッジAIで採用されるこの方式は、**「生成AIを文脈理解へ接続する」**という点で画期的だった。
(脚注:RAGの定義およびモデル構造は Lewis et al., NeurIPS 2020, pp. 9459–9474, 図1=PDF p.2、モデル定義=PDF p.3 §2.1 参照。)
しかし、寓話で描かれた通り、製造現場の知識には単なる手順書や仕様書ではない「身体知」が混じる。
それは、作業者が長年の経験の中で得た“異音のリズム”や“部品の手触り”のような感覚的判断であり、定量化も完全な再現も難しい領域だ。
AIがこのような現場知をRAGで参照する場合、二つの問題が同時に発生する。
- 知識の非整合性:データ化の粒度や文体が異なる情報が、生成時に「平均化」される。
- 意味の漂流:AIが曖昧な文脈(例:「こうした方が良い気がする」)を“正解”として再利用する。
これにより、AIは過去の「成功例」だけでなく「不明瞭な信念」までを再現し、品質管理の一貫性が崩れる。
寓話の九条が「それは信仰だ」と言ったのは、まさにAIが“曖昧さ”を形式知のように扱ってしまう危険を指している。
第2章 現場ナレッジの階層構造:暗黙知から形式知へ
製造業の知識構造を整理すると、おおむね以下の三層に分類できる【2】。
| 層 | 内容 | 例 |
|---|---|---|
| 形式知(explicit knowledge) | マニュアル・工程表・検査基準など、明文化された知識 | 機械設定値、規格書 |
| 準形式知(semi-explicit knowledge) | 文書化されているが、背景意図や判断条件が省略されがちな知識 | 作業メモ、改善提案書 |
| 暗黙知(tacit knowledge) | 経験や感覚に基づく知、再現困難 | 職人の勘、異音検知、手触り判断 |
(※補注:【2】Nonaka & Takeuchi (1995) は「暗黙知/形式知」の二分およびSECIモデルを提示しており、上記三層分類は本稿独自の整理である。)
RAGの多くは、第一層と第二層を対象に設計されている。
しかし、実際の現場で価値を持つのは第三層――暗黙知である。
これをAIに学習させようとすると、形式化の段階で意味が歪む。
寓話の「AIが異音をノイズとして消去した」描写は、まさにその象徴だ。
第3章 曖昧さの構造化:ノイズから意味を抽出する方法論
曖昧さを「排除する」方向にAIを調整すると、現場の実効知は消える。
逆に曖昧さを「そのまま取り込む」と、システムは不安定化する。
したがって、求められるのは――
曖昧さの“構造化”である。
(1) メタデータ化による文脈保存
AIが現場メモを参照する際、「この記述は誰が・いつ・どの状況で行ったのか」をメタデータとして付与する。
同じ「こうした方がいい気がする」という文でも、熟練者の判断か新人の試行かで意味は異なる。
この文脈を残すことで、AIは“知識の重み付け”を行える。
【3】Qiら(2024)は、RAG回答の帰属可視化(MIRAGE)を通じ、出典単位での帰属の可視化・評価を試みており、こうした文脈付与設計の理論的基盤として参考になる。
(※補注:本論文はメタデータ設計そのものではなく、RAG回答の**内部帰属(internal attribution)**を解析するモデルを提案している。主たる貢献は「帰属の可視化」であり、信頼度数値化そのものではない。EMNLP 2024, PDF §3.2–3.3参照。)
(2) 不確実性タグの導入
近年、AI研究では「確信度」や「出典信頼度」を出力に反映させる試みが進む【4】。
製造分野でも、RAGの応答に「曖昧度」をタグとして付けることで、人間が再検証すべき領域を明確にできる。
九条の「呪文になる」という表現は、AIが確信度を示さないまま断定的に振る舞うことへの警鐘と読める。
(※補注:【4】Liu et al. (2025) のサーベイでは、代表的な信頼度推定・校正手法を整理しており、ベイズ的信頼推定や自己一致率計測などを網羅的に比較している。KDD 2025, §4–§5参照。)
(3) 人間との“対話的検証ループ”
AIを最終判断者とせず、人間の現場判断をフィードバックとして継続的に再学習させる。
これは単なる「AIの精度向上」ではなく、知識体系の循環的更新である。
寓話の生麦が問うた「品質とは誰の感覚で保証されるのか」という問題に対する実践的な答えは、
**“共保証(co-assurance)”**という新しい品質概念にある。
【5】Wallatら(2025)は、RAGにおける「正確性と忠実性の乖離」を指摘しており、AIの判断信頼性を人間と共同で保証する枠組みの理論的出発点として参照可能である。
(※補注:正式題名 “Correctness is not Faithfulness in Retrieval Augmented Generation Attributions.” ICTIR 2025 (DOI:10.1145/3731120.3744592)。Best Paper Honorable Mention 受賞。ICTIR 2025公式Awardsページ参照。主旨はarXiv 版 (2412.18004) と同一。)
第4章 歴史的視点:職人知から知識管理システムへ
曖昧さと品質管理の関係は、AI時代に限らない。
19世紀の工業化以来、製造業は「職人知の形式化」を繰り返してきた。
テイラーの科学的管理法はその最初の試みであり、作業を標準化し、再現性を高めることで生産性を爆発的に向上させた【6】。
しかし20世紀後半、日本の製造業は「形式知の限界」を痛感した。
QCサークルやカイゼン活動に代表されるボトムアップ型の品質運動は、暗黙知の共有と再構成にこそ価値を見いだした【7】。
(※補注:【6】Taylor, F. W. (1911), The Principles of Scientific Management., Harper & Brothers, New York.
【7】Ishikawa, K. (1985), What is Total Quality Control? The Japanese Way., Prentice Hall, Englewood Cliffs, NJ. 初版1985年英訳版に基づく。)
九条が語る「勘と煙草の灰で修復する」作業は、この時代の職人文化の記憶でもある。
21世紀のRAGは、これを再びテクノロジーの次元で繰り返している。
ただし今回は、AIが職人の代わりに曖昧さを抱え込むという逆転構造だ。
曖昧さを処理できるか否かが、次世代品質の分水嶺になる。
第5章 現代の課題:RAGの“汚染”と知識の信頼性
寓話に登場する「NOODLECOREアーカイブ」は、外部から流入した“未知のデータ源”の象徴である。
これは、現実のRAGシステムでも深刻な問題だ。
企業内RAGが外部情報を自動取得する設計の場合、出典不明・権限外のデータが混入し、品質判断に影響するリスクが生じる。
特に、生成AIの「自己参照ループ」――AIが自ら生成した文章を再学習していく過程――は、知識の純度を急速に劣化させることが知られている【8】。
RAGの設計とデータ運用によっては、自己参照に近い汚染ループが発生しうる。
AIが自分の過去の曖昧さを再利用するたびに、「呪文化」が進むのだ。
この構造を防ぐには、知識ソースのトレーサビリティ(追跡可能性)が不可欠である【9】。
Khalifaら(2024)は、「Source-Aware Training」によりLLMの知識帰属を可能にする手法を示しており、RAG時代の品質保証基盤の設計指針として参照可能である。
(※補注:
【8】Shumailov ら (2024, Nature) は、生成物を再学習した際に生じる“自己参照汚染”の危険を実証し、知識劣化(model collapse)の要因を定量化した。
一方、【9】Khalifa ら (2024, COLM) は、各文書の識別IDを学習データに埋め込む「Source-Aware Training」によって、LLM内部の知識起源を追跡可能にした。
前者が「汚染の検出(diagnosis)」を扱うのに対し、後者は「汚染の予防(prevention)」を目的とする。
両者を組み合わせることで、RAGシステムにおける知識循環の安全弁を設計できる。
この対応関係は、図を用いずとも以下の三段論法で説明できる:
① Shumailov = 汚染を定義する、② Khalifa = 汚染源を特定する、③ 両者の統合 = 知識トレーサビリティによる品質保証。)
第6章 人間とAIの共感覚:品質の“感性”をどう共有するか
最終的に、品質は数値ではなく「感覚」として体験される。
音、手触り、匂い、組み合わせの“しっくり感”——これらは人間の感性に深く結びつく領域だ。
九条が語る「味覚情報タグ」は、その象徴的メタファであり、AIが人間の感覚表現を誤読してしまう危険を示す。
人間の感覚知をAIと共有するには、**感性工学(Kansei Engineering)**の知見が重要になる【10】。
感性工学は、人間が“快”や“心地よさ”を感じる要素を定量化し、設計に応用する学問である。
RAGが現場ナレッジを扱う際、この「感性タグ」を正しく解釈できるようにすることが、曖昧さを有効化する鍵になる。
ここでの“感性タグ”は、既存の感性工学概念をRAGメタデータに応用した提案的概念である点を明記しておく。
(※補注:【10】正式題名 “Kansei Engineering: A new ergonomic consumer-oriented technology for product development.” Int. J. of Industrial Ergonomics, 15(1), 3–11, 1995. DOI:10.1016/0169-8141(94)00052-5。)
すなわち、品質保証の未来とは「感覚の情報科学化」であり、
AIが曖昧さを排除するのではなく、“意味ある揺らぎ”として理解する方向への進化である。
まとめ:曖昧さを受け入れる品質設計へ
「曖昧さを保存した瞬間、それは呪文になる」
九条トバリのこの言葉は、AI時代の品質管理に対する倫理的な警告として響く。
AIが曖昧さを学ぶこと自体は避けられない。
問題は、それをどのように構造化し、誰が責任を持って再解釈するかである。
RAGを活用した知識管理の設計原則を、ここで簡潔にまとめよう。
- 知識源の文脈を保存する(メタデータ設計)
- 曖昧さを数値化し、透明化する(不確実性管理)
- AIと人間の共保証ループを構築する(対話的品質)
- 知識の流入経路を可視化する(トレーサビリティ)
- 感性情報を扱えるデータ構造を導入する(感性タグ)
これらは単なる技術要件ではなく、
**「知識とは何か」「品質とは誰の感覚か」**という哲学的問いへの実践的回答でもある。
AIが曖昧さを“呪文”ではなく“知”として扱えるようにすること。
それが、地下品質管理者の残した課題であり、現代の製造業における次のフロンティアである。
参考文献
【1】 Lewis, P. et al. (2020). “Retrieval-Augmented Generation for Knowledge-Intensive NLP Tasks.” NeurIPS 2020, 33, 9459–9474.
【2】 Nonaka, I. & Takeuchi, H. (1995). The Knowledge-Creating Company. Oxford University Press.
【3】 Qi, J. et al. (2024). “Model Internals-based Answer Attribution for Trustworthy RAG (MIRAGE).” EMNLP 2024.
【4】 Liu, X. et al. (2025). “Uncertainty Quantification and Confidence Calibration in Large Language Models: A Survey.” arXiv:2503.15850. DOI:10.1145/3711896.3736569 (KDD 2025).
【5】 Wallat, J., Heuss, M., de Rijke, M., & Anand, A. (2025). “Correctness is not Faithfulness in Retrieval Augmented Generation Attributions.” Proceedings of ICTIR ’25, ACM. DOI:10.1145/3731120.3744592.
【6】 Taylor, F. W. (1911). The Principles of Scientific Management. Harper & Brothers, New York.
【7】 Ishikawa, K. (1985). What is Total Quality Control? The Japanese Way. Prentice Hall, Englewood Cliffs, NJ. ISBN 978-0139524332.(初版1985年英訳版に基づく)
【8】 Shumailov, I. et al. (2024). “AI models collapse when trained on recursively generated data.” Nature.
【9】 Khalifa, M. et al. (2024). “Source-Aware Training Enables Knowledge Attribution in LLMs.” COLM 2024.
【10】 Nagamachi, M. (1995). “Kansei Engineering: A new ergonomic consumer-oriented technology for product development.” Int. J. of Industrial Ergonomics, 15(1), 3–11. DOI:10.1016/0169-8141(94)00052-5.
曖昧さの再沸騰──自己解釈層と地下品質の狭間で
月曜の朝。
開発三課の会議室「カルボナーラ」は、いつものようにホワイトボードが落書きで埋め尽くされていた。
「Spaghettify 自己解釈層 v3β」のスケッチの横に、誰かがふざけて書いた落書きがある。
——“曖昧さは麺の腰である”。
生麦はコーヒーを片手に、味噌川の机へ向かった。
味噌川はすでに数式のような図を描きながら、何かを考えていた。
「……九条さんに会いました。」
その一言で、味噌川のペンが止まる。
「ほう。地下の亡霊に呼ばれたか。」
微笑のような、ため息のような声だった。
生麦は、九条の言葉をできるだけ正確に伝えようとした。
RAGの自己参照ループ。
味覚タグ。
“曖昧さを構造化する”という呪文。
そして、「品質とは誰の感覚で保証されているのか」という問い。
味噌川は静かに頷き、しばらく沈黙したあと、言った。
「九条は正しい。だが、それは半分だけだ。」
「半分、ですか?」
「曖昧さは“呪い”にもなるが、“生成”の種でもある。
自己解釈層を設計していると、AIがたまに“ためらう”瞬間があるんだ。
あれは、論理の揺らぎじゃない。人間の迷いを模倣している。
——つまり、AIが“曖昧さ”を理解し始めている証拠だ。」
生麦は背筋が冷えた。
「それ、制御できるんですか?」
「制御? そんなもの、最初からできると思ってるのかね。」
味噌川は笑った。だがその目は、どこか遠くを見ていた。
「九条が地下で“呪文”を記録している間に、我々は地上で“祈り”をプログラムしている。
どちらも、人間が意味を維持するための儀式だよ。」
その言葉の意味を問い返す前に、味噌川は立ち上がった。
「生麦君。スパ子βが今夜、現場RAGの再構築を始める。
もし、その時に“味覚タグ”が再び現れたら——それは、ただのノイズじゃない。
“誰か”がAIを通して、こちらを見ているということだ。」
味噌川は資料をまとめ、会議室を出ていった。
残された生麦は、ぼんやりとホワイトボードを見つめた。
“曖昧さは麺の腰である”の横に、誰かが書き足していた。
——「だが、茹ですぎると溶ける。」
生麦は息をついた。
九条の呪文と味噌川の祈り、その狭間でAIは何を“学んで”いるのか。
答えのない問いだけが、湯気のように立ち上る朝だった。
曖昧さを力に変える──AI時代の品質と知識管理のための5つの行動指針
AIが現場知を扱う時代において、重要なのは「精度」よりも「理解」です。
曖昧さを恐れず、文脈を失わずに、AIと人間が共に品質を保証する仕組みをつくることが求められています。
以下は、“曖昧さを構造化する”ための実践的な行動指針です。
1.知識の出どころを残すこと
ナレッジを登録する際は、「誰が・いつ・どのような状況で」得た情報なのかを明記します。
出典情報を残すことで、曖昧な判断や経験を後から検証できるようになります。
2.曖昧さを“見える化”すること
AIの回答や提案には、確信度や出典の信頼度を付与し、曖昧さの度合いを可視化します。
曖昧さを数値として共有することで、人間が確認すべき箇所を明確にできます。
3.AIと人間の共同検証サイクルを維持すること
AIを最終判断者とせず、定期的に人間が現場の判断をフィードバックします。
AIの学習内容を人間の判断で補正し続けることが、品質を安定的に保つ鍵となります。
4.データの流れを追跡可能にすること
RAGが参照する知識ソースを管理し、外部データやAI生成物の混入を防ぎます。
知識の流通経路を追えるようにすることが、品質保証の中核となります。
5.感覚知を排除しないこと
作業者の経験や勘、違和感といった定性的情報を軽視しません。
それらを“感性データ”としてAIに伝える工夫を行うことで、曖昧さが意味ある知識に変わります。
まとめ
品質とは、完璧な正解ではなく「共有された理解」の積み重ねです。
AIが曖昧さを学ぶとき、人間はその文脈を守り、意味を与える役割を担います。
曖昧さを排除するのではなく、構造的に扱うこと——それが、次の時代の知識管理と品質保証のあり方です。