ゲームにおける「無敵時間」は、プレイヤーを一時的に傷つかない存在にする設計だが、その形態は二種類ある。――「被ダメージ直後の猶予」としての受動的無敵と、「特定アイテムで得られる力」としての能動的無敵である。前者は苦痛を制御するための倫理的設計であり、後者は権力の行使と責任の問題を孕む。本稿では、この二つの無敵を比較しながら、人間にとって「傷つかないこと」は本当に善なのかを、ゲーム哲学・倫理学・心理学の交点から考察する。


第1章 「無敵」とは何か ― 二つの仕組みの系譜と意味

1-1 無敵時間の起源と技術的役割

「無敵時間(Invincibility Time)」とは、ゲームにおいてプレイヤーキャラクターが一時的にダメージを受けない状態を指す。古典的なアクションゲーム『スーパーマリオブラザーズ』を例に取れば、敵に触れた直後の点滅時間がそれにあたる【1】【2】。この仕組みは、プレイヤーが連続的に攻撃を受けて理不尽に倒されるのを防ぐために生まれた。

ここでいう「無敵」とは、ゲーム内の i-frames(invincibility frames:無敵フレーム) によって実現される、一時的な被ダメージ計算の無効化を意味する【2】。この短い間、プレイヤーは敵と接触しても再びダメージを受けない。

しかし、この「無敵」にはもう一つの形態がある。たとえば、同じ『マリオ』シリーズのスーパースターを取った瞬間。マリオは敵を一撃で倒し、音楽が高揚し、あらゆる障害を無視して進める【3】。これはアイテムによる能動的無敵である。プレイヤーが努力・偶然・報酬を通じて手に入れる“特権的状態”だ。

つまり、無敵には次の二つの系譜が存在する。

  • 受動的無敵:被弾後の一時的保護。痛みの制御装置。
  • 能動的無敵:報酬や特権による一時的支配。力の実感装置。

前者はプレイヤーを「守るため」にあり、後者はプレイヤーを「高揚させるため」にある。この二重性こそ、「無敵」という単語が持つ倫理的・哲学的深みの源泉である。

なお、マリオにおける無敵は「万能」ではない。時間切れや落下、圧死といった環境的要因では、たとえスーパースター中であってもミスとなる【1】【3】【4】。このように、無敵は常に“限定的”に設計されている点に倫理的意味が潜む。

また、初期作の一部状況では、小マリオのように被弾=即ミスとなり、被弾後の無敵を体験しないケースもある(作品仕様に依存)。それでもシリーズ一般には、被弾直後の短時間無敵という設計が広く採用されてきた【1】。


1-2 “痛みの再設計”としてのゲーム

ゲームは、現実と違って「痛み」を再設計できるメディアである。プレイヤーは死んでも再挑戦できるし、失敗も学びとして蓄積される。デザイナーは「どの程度の苦痛を与えるか」「どこで救済するか」を設計することができる。

無敵時間とは、まさにこの「痛みの再設計」の中核にある仕組みだ。ゲームは痛みを削除しない。むしろ、痛みを耐えられる形に整える。これは、教育・医療・心理の領域における“適度なストレス”と同じ構造を持つ【5】。完全な安全では人は成長しないが、過剰な苦痛では心が折れる。無敵時間は、その「人が変化できる痛みの閾値」をデザインする装置である。

この観点から見ると、ゲームの中での無敵は単なる仕様ではなく、痛みの倫理的翻訳である。そこには「人はどこまで傷つくべきか」「どこで守られるべきか」という、深い人間理解が横たわっている。


第2章 受動的無敵 ― 傷つく自由を守るための休止

2-1 「被ダメージ後の無敵」が生まれた理由

初期アクションゲームの開発者たちは、ハードウェアの制約と格闘しながら“理不尽な死”を回避する方法を探していた。連続ダメージを受けて即死するような状況は、プレイヤーに「操作の責任」を感じさせず、不公平な体験を生む。

そこで導入されたのが、ダメージ直後の無敵猶予である【2】。これは単なる「優しさ」ではなく、学びの時間でもある。プレイヤーは一瞬の安全の中で状況を観察し、次の行動を判断できる。この短い時間が、ゲームプレイを「思考的行為」へと変える。

つまり受動的無敵は、プレイヤーが“再び挑む自由”を得るための設計上の倫理装置なのである。


2-2 倫理的機能:苦痛の緩衝と学習の時間

心理学的に見れば、受動的無敵は「ストレス緩衝期」に相当する。トラウマ研究では、過度なショックの直後に適度な緩衝期間を置くことで、被験者が経験を整理しやすくなることが知られている【6】。ゲームの無敵時間も同様に、プレイヤーが「痛みを意味づける余裕」を与える。

Yerkes–Dodsonの法則【5】に照らすと、過少・過多のストレスは成長を妨げ、適度な緊張が学習を促すが、この関係は課題や個人差によって変わりうることが指摘されている。
なお、同法則の最適域は単純なU字モデルに還元できないという再検討もある。
ゲームの無敵時間は、その「最適な痛みの設計」を実践する場でもある。

これは、ゲームが単に「安全な遊び」ではなく、倫理的に調整された実験空間であることを示している。そこでは失敗が罰ではなく、学習の素材として再構成される。プレイヤーが痛みから逃げるのではなく、「痛みをどう扱うか」を学ぶ。そのための一時的な猶予こそ、受動的無敵の本質だ。

(※【6】は実生活の高ストレス事象を扱う研究であり、ゲームデザインへの応用は比喩的参照である。)


2-3 「守られること」の倫理

無敵時間はプレイヤーを守るが、永遠ではない。なぜなら、完全な安全は成長を停滞させるからだ。もしプレイヤーが永遠に守られていたなら、挑戦は意味を失い、達成の喜びも消える。

この点で、受動的無敵は**「自由を維持するための保護」**である。守ることが目的ではなく、「再び挑むこと」を守る。
言い換えれば、無敵時間とは「傷つかないための設計」ではなく、「傷つく自由を保つための設計」なのだ。

ゲームデザインはここで、倫理的判断を内包する。どの程度の苦痛を許容し、どの程度の保護を与えるか――それは、まさに人間の成長可能性をどう信じるかという哲学的選択である。


第3章 能動的無敵 ― 力を得た者の倫理

3-1 報酬としての無敵アイテム

受動的無敵が「守るための無敵」だとすれば、能動的無敵は「力を得るための無敵」である。スーパースター、無敵化パワーアップ、ゴッドモード――これらはプレイヤーが努力、探索、または偶然によって獲得する報酬であり、一時的にゲーム世界のルールを超越する力を与える【3】【4】。

この瞬間、プレイヤーは支配者になる。敵はもはや脅威ではなく、ただの対象へと変わる。痛みも緊張も消え、純粋な力の快楽だけが残る。これはデザイン上のカタルシスであり、短い全能感を味わう時間である。

だが、同時にここに倫理的問題が生じる。――「痛みを感じない者は、他者の痛みを想像できるか?」


3-2 「痛みのない暴力」の危険

無敵状態のプレイヤーは、どれほど敵を倒しても傷つかない。その行為にはリスクも恐れもない。そこには「痛みのない暴力」という構造がある。

この構造は、現代のテクノロジー社会にも通じる。SNSの匿名攻撃や、AIを介した言葉の暴力は、まさに「能動的無敵」による行為である。そこでは、発信者は傷つかない。痛みの非対称が、倫理の崩壊を招く。

ゲームの中で無敵状態を体験することは、ある意味で倫理なき権力の練習でもある。デザイナーがその時間をどう制限し、どう演出するかは、プレイヤーが「力をどう使うべきか」を学ぶ上で決定的に重要である。


3-3 権力の哲学としての無敵

アリストテレスは『ニコマコス倫理学』において、徳を「理性により決まる中庸の選択」として定義した【7】。能動的無敵の時間とは、この中庸――力の使い方の適切さを試す縮図である。
プレイヤーは無敵の間に、

  • 無駄に暴力を振るうのか、
  • それとも目的を見失わずに進むのか。

その選択が、ゲームの中での「人間性」を決定づける。

したがって、能動的無敵とは単なる爽快の演出ではなく、**「力と責任の倫理」**をプレイヤーに問う時間である。
痛みがない状態において、なお「善く在る」ことができるか。――それは、無敵時間が提示する最も深い哲学的課題である。


第4章 無敵の二重性 ― 癒しと傲慢のあいだ

4-1 保護する無敵と支配する無敵

これまで見てきたように、無敵には二つの性質がある。
ひとつは「受動的無敵」――プレイヤーを守るための時間。
もうひとつは「能動的無敵」――プレイヤーに力を与える時間である。

受動的無敵は、ダメージ直後の回復の猶予であり、**再挑戦のための間(ま)**だ。そこでは、痛みが意味づけられ、経験として昇華される。
一方の能動的無敵は、プレイヤーを世界の支配者へと変える。敵を倒すことが目的ではなく快楽となり、倫理的抑制は一時的に解除される。

つまり、無敵とは「癒し」と「傲慢」の二面性をもつ装置である。どちらも「傷つかない」状態ではあるが、その意味は正反対だ。前者は学びを守るための非暴力であり、後者は責任なき暴力に近づく。
ゲームデザイナーがこのバランスをどのように設計するかによって、プレイヤー体験は「成長の物語」にも「力の狂気」にも変わりうる。


4-2 現代社会への転写 ― 「無敵化」する人間

この「無敵の二重性」は、現実社会にも驚くほどの類似を見せる。
テクノロジーが進化し、私たちは以前よりも簡単に「傷つかない仕組み」を手に入れた。

たとえばSNS。ブロック機能やミュート機能は、他者の攻撃から身を守る「受動的無敵」として機能する。
他方で、匿名性の背後から他者を攻撃する行為は「能動的無敵」に近い。自分は傷つかず、相手だけが傷つく。そこでは責任感が希薄になり、痛みの非対称が拡大する。

またAI時代において、人間はますます“リスクを他者に委譲する”存在になりつつある。アルゴリズムに判断を任せ、失敗の責任を曖昧にする。この構造もまた、無敵化した主体の一形態だ。
つまり私たちは、デジタル技術によって「傷つかない自分」を日常的にデザインし始めているのである。

しかし、痛みを排除する社会は必ずしも幸福ではない。
共感は他者の痛みを想像する能力に基づく。痛みを知らない者は、他者の痛みを理解できない。
そう考えると、無敵化が進む現代とは、共感の退化を伴う時代でもある。


4-3 “無敵を設計する責任”

ゲームデザインにおける「無敵時間」は、プレイヤー体験を守るために緻密に設計された。
だが、現実の社会では、私たち自身がその「無敵の設計者」になりつつある。SNSの使い方、AIへの依存、リスクの回避、感情の遮断――それらはすべて、無敵をデザインする行為である。

ここで問うべきは、「どんな無敵を自らに与えるか」である。
癒しとしての無敵を選ぶのか、それとも傲慢としての無敵に浸るのか。
どちらの選択も人間的だが、後者が続けば、私たちは“傷つかないかわりに、理解しない存在”になってしまう。

アーレントは『人間の条件』【8】で、行為の中にこそ人間の責任が宿ると述べた。
無敵の設計とは、まさにその責任の放棄か、再構築かの選択である。

ゲームデザイナーがプレイヤーに「再挑戦のための無敵」を設けるように、私たちもまた、自らの無敵を他者との関係を再構築するための時間として設計し直す必要がある。
それが、「痛みを排除するのではなく、痛みと共に生きる社会」への第一歩となる。


第5章 本稿の結論 ― 傷つかないことは善か

5-1 痛みの否定は、経験の否定である

「無敵」であることは、確かに心地よい。痛みはなく、恐れもない。
しかし、そこにはもう一つの事実がある。――痛みがなければ、経験もない。

ゲームが私たちに教えるのは、痛みを通してしか得られない理解があるということだ【9】【10】。
失敗し、ダメージを受け、その上で再挑戦することで、プレイヤーは世界の法則を身体化する。無敵時間はそのための“余白”であり、“免罪”ではない。

つまり、痛みを完全に否定する世界は、学びを放棄した世界である。
それは楽園ではなく、無意味の静寂にすぎない。


5-2 「無敵時間」とは何かの再定義(改訂版)

これまで見てきたように、無敵時間とは、人が再び挑むために世界が与えた時間の装置である。
真に倫理的な存在とは、痛みを避ける者ではなく、痛みを理解し、それと共に行動できる者である。

だが同時に、「傷つかないこと」にもまた学びがある。
そこには、痛みのない状態だからこそ見えるもの――冷静さ、創造性、他者を守る余裕――が存在する。
無敵の時間は、暴力を忘れさせる危険も孕むが、一方で「安心の中でこそ回復できる人」も確かにいるのだ。

したがって、「傷つかないこと」は単なる善でも悪でもない。
それは、どのようにその時間を用いるかによって意味が変わる。
痛みの中に学ぶ者もいれば、痛みの外でようやく自分を取り戻す者もいる。
大切なのは、そのいずれの時間にも「次にどう生きるか」という選択が伴うということである。

無敵時間とは、私たちが世界と関係を結び直すための“余白”であり、
そこにある静けさをどう使うか――そこにこそ、人間の倫理が問われている。


参考文献

【1】 Invincible Mario. Super Mario Wiki(retrieved 2025年10月)
【2】 How Understanding I-Frames and Hitboxes Can Make You Better at Gaming. How-To Geek(2025年1月31日)
【3】 Super Star. Super Mario Wiki(retrieved 2025年10月)
【4】 Time Limit. Super Mario Wiki(retrieved 2025年10月)
【5】 Yerkes, R. M., & Dodson, J. D. (1908). The relation of strength of stimulus to rapidity of habit-formation. Journal of Comparative Neurology and Psychology, 18(5), 459–482.(課題難易度により最適域は変動)
【6】 Tedeschi, R. G., & Calhoun, L. G. (2004). Posttraumatic Growth: Conceptual Foundations and Empirical Evidence. Psychological Inquiry, 15(1), 1–18.(本稿では比喩的参照)
【7】 Aristotle. Nicomachean Ethics, trans. W. D. Ross (1925), Book II ch. 6.
【8】 Arendt, H. (1958). The Human Condition. University of Chicago Press.
【9】 Juul, J. (2013). The Art of Failure: An Essay on the Pain of Playing Video Games. MIT Press.
【10】 Gee, J. P. (2003). What Video Games Have to Teach Us About Learning and Literacy. Palgrave Macmillan.

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