ゲームの中には、仕様や演出、あるいは単なるバグによって「どうやっても取れないアイテム」が存在する。だがそれは単なる未完成ではなく、プレイヤーの欲望や世界の限界を映す鏡でもある。本稿では、ゲームデザイン・心理学・哲学の三つの視点から、この“取れないアイテム”を分析し、人間の「得られないもの」への執着と意味生成の構造を探る。
第1章 取れないアイテムという不可思議な存在
ゲームをプレイしていると、明らかにそこにあるのに「どうしても手に入らない」アイテムに出会うことがある。画面の端に見える宝箱、データ上には存在するが入手手段が封じられている装備、あるいは内部解析でのみ確認できる幻のデータ。プレイヤーはそれを目にした瞬間、心のどこかがざわつく。「なぜ取れないのか」「取る方法があるのではないか」と。
この現象は単なる不具合の結果である場合も多い。開発上の都合や、没になったイベント、未配信のデータなど。しかし、ゲームという閉じた世界において「取れないアイテム」は、単なる“欠落”以上の意味を帯びる。なぜならそれは、完全性への欲望と、その不可能性を同時に可視化する装置だからである。
プレイヤーはゲーム世界の神のような存在になりたい。すべてを探索し、すべてを手にし、完全な理解者でありたい。その夢を叶えるのがRPGや探索型ゲームの醍醐味である。しかし、「どうやっても取れないアイテム」は、その幻想に亀裂を入れる。世界は完全に掌握できない――その現実を、ゲームという人工の箱庭の中で告げるのだ。
こうした現象は、プレイヤーの心理を強く刺激する。攻略サイトや掲示板、SNSで情報を共有し、可能性を探り続ける行為そのものが、ひとつの「探求の物語」になる。つまり、「取れないこと」自体が新たなプレイ体験を生み出すのだ。
なぜ人は、“手に入らないもの”にこそ心を奪われるのか。
次章では、この問いをゲームデザインの構造から解き明かしていく。
第2章 ゲームデザインと取れないアイテムの必然
1. 開発と設計上の「意図的な欠如」
ゲーム制作において、“取れないアイテム”は必ずしも失敗ではない。むしろ、それはデザイン上の必然として存在することがある。
たとえば『ゼルダの伝説』シリーズに登場する「見えるが届かない宝箱」は、プレイヤーに“後で来る理由”を与える設計だ【1】。すぐに取れないからこそ、世界は深く感じられる。制約は探索の動機を生み、未完は継続を生む。
同様に、『ダークソウル』シリーズでは、プレイヤーが当座は到達できない高所や、条件を満たさなければ開かない扉が多数存在する【2】。それらは単なる背景ではなく、「世界の存在感」を支える装置である。人間が立ち入れない場所があることで、逆に“世界の奥行き”が生まれる。これをJesper Juul(2013)は『The Art of Failure』の中で、失敗が体験の深度を増す契機になると論じた【3】。
2. 意図せざる欠如:データ上の幻影として
もう一つの経路は、開発過程の偶発的な残留である。
ゲームデータを解析すると、正式には登場しない武器やキャラクターが存在することがある。『ポケモン』シリーズの未配布モンスターや、『ファイナルファンタジー』シリーズの没アイテム群がその例だ【4】。
これらは、プレイヤーが公式には手にできないが、データ上は「存在する」。この“存在しているのに触れられない”状態が、ファンコミュニティに特有の神秘性を生む。そこには単なる収集欲以上の、“禁断の知”への誘惑がある。まるで神が創った世界の設計図を覗き見るような、メタ的悦びである。
3. 世界を閉じる装置としての欠如
ゲームは有限の世界である。プレイヤーが全てを入手し、理解し、征服してしまえば、その世界は閉じてしまう。したがって、完全性は体験の終焉でもある。
その意味で、「取れないアイテム」は世界を閉じないための装置とも言える。未解明の要素が残ることで、プレイヤーはその世界に思考を投げ続ける。現実的なリプレイを終えても、想像の中では探索が続くのだ。
第3章 プレイヤーの欲望と欠如の構造
1. 欠如が欲望を生む
精神分析学の祖フロイト、そしてラカンは、人間の欲望は「欠如(Lack)」から生まれると述べた。完全に満たされた存在には、欲望がない。つまり、“足りない”ことが人を動かす。
ゲームにおける「取れないアイテム」は、まさにこの心理的メカニズムを象徴する。すべてを入手した瞬間、プレイヤーの興味は冷める。だが、あと一つだけ届かない――その「未完」がプレイの継続を促す。
これは単なる報酬設計のテクニックではない。プレイヤーは、欠如を通じて自己の限界と向き合う。ゲームが人を引き込むのは、達成感ではなく、常に“もう少し先”への渇望である。
2. コレクション欲と認知的不協和
コンプリートを目指す行動は、「認知的不協和の解消」として説明できる。リストに一つだけ空欄があると、人は不快を感じ、それを埋めようとする。この心理を利用した収集要素は普遍的に存在する。
しかし、“どうやっても取れないアイテム”は、この不協和を永久に解消不能にする。プレイヤーは理性では理解していても、感情のどこかで納得できない。この小さな“ざらつき”が、作品への記憶を長く留める。
3. 「取れない」が生むリアリズム
現実の世界においても、人はすべてを手に入れることはできない。
人生の選択、時間、愛情、可能性――どれも有限である。
ゲームで「取れないアイテム」に出会うことは、その有限性を安全な仮想体験として引き受けることに近い。
それは敗北ではなく共鳴だ。「手にできない」ことを受け入れる瞬間、プレイヤーは単なる消費者から、世界を理解しようとする存在へと変わる。
第4章 取れないものの存在論
1. 「存在するのに、触れられない」ものへの関心
“取れないアイテム”とは、視界には存在しながら、操作可能性の外側に置かれた存在である。この構造は哲学の古典的主題でもある。
ハイデガーは『存在と時間』(1927)で、人間は「世界内存在者」として、常に“理解しきれない存在”に囲まれていると述べた【5】。
プレイヤーが世界を「全知」できないことを、ゲームはこの欠如を通して告げる。
現実世界でも、私たちは“理解しきれない構造”の中で生きている。
たとえば日常的な現象――なぜトーストが必ずバター面を下にして落ちるのか――という問いもまた、
『トーストが必ずバター面を下にして落ちる理由』が示すように、
理解不能な秩序を受け入れる哲学的実験である。
2. 創造者=神、プレイヤー=被造物
ゲームにおける開発者とプレイヤーの関係は、神学的な構造を帯びる。
開発者は世界を設計し、法則を定める神的存在。プレイヤーはその世界で運命づけられた被造物。
「取れないアイテム」は、創造者が被造物に与えた境界線である。
それは「ここまでは触れられるが、ここから先は世界の外だ」という神の沈黙のサインだ。
だがその沈黙こそがプレイヤーに“思考”を与える。なぜ存在するのか? 本来どう取るはずだったのか?――この問いが、観想的プレイを生む。
3. 欠如が生む「世界の奥行き」
完全に透明な世界は退屈である。
何も隠されず、すべてが取得可能であれば、探索も意味も失われる。
だからこそ、優れたゲームほど「届かない場所」や「解けない謎」を意図的に残す。
たとえば『ICO』や『ワンダと巨像』(上田文人監督作品)では、明確な報酬や説明が欠落していることが、逆に没入を強めている【6】。
“取れないアイテム”もまた、説明されない空白としての豊かさを担う。
「取れない」という現象は、世界を厚みあるものにする詩的装置なのだ。
第5章 手にできないものが教える“プレイ”の意味
1. 完全性よりも、未完性を生きるプレイ
取れないものこそがプレイを持続させる。
取れないアイテムが残されていることで、世界は閉じない。プレイヤーは終わりを超えて“考えるプレイ”を続ける。
人生もまた同じだ。人は常に、何かを取り逃がしながら生きる。完全な理解や達成など存在しない。だがその“届かなさ”の中でこそ、意味を紡ぎ、探求を続ける。
2. ゲーム的存在としての人間
カイヨワやホイジンガは人間を「遊ぶ存在(Homo Ludens)」と定義した【7】。
もしそうなら、人生もまた、無数の“取れないアイテム”に満ちたゲームである。理想、愛、時間、健康――どれも完全には手にできない。
だがそれらの欠如こそが、私たちを生かし、動かし、考えさせる。
「取れないアイテム」をめぐる思索は、生きるとは何かという問いへの接続点となる。
“得られないまま生きること”を受け入れる成熟の瞬間である。
3. 結論
「どうやっても取れないアイテム」は、欠陥ではなく、世界と自己の限界を可視化する哲学的装置である。
それは“完全性”という幻想を崩し、プレイヤーに「探求し続けること」の価値を思い出させる。
取れないものがあるからこそ、世界は深く、人生は続く。
“すべてを取れない”という不完全さこそが、プレイの本質であり、存在の美学なのである。
参考文献
【1】 任天堂『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド:開発者が語る挑戦の舞台裏』(2017)/Zelda Wiki “Unobtainable Treasure Chest”
【2】 Keogh, B. (2017). A Play of Bodies: How We Perceive Videogames. MIT Press./Smethurst, T. (2015). Dark Souls and the Meaning of Difficulty. Game Studies, Vol.15.
【3】 Juul, J. (2013). The Art of Failure: An Essay on the Pain of Playing Video Games. MIT Press.
【4】 The Cutting Room Floor: “Pokémon series unused data”/“Final Fantasy VII (PlayStation)”/『ファイナルファンタジーVII アルティマニア オメガ』(スクウェア・エニックス, 2005)
【5】 Heidegger, M. (1927). Sein und Zeit. Niemeyer Verlag.
【6】 Ueda, F. (2010). “Design by Subtraction.” GDC Presentation./Zalewski, D. “The Ecstasy of Influence.” The New Yorker (2005)./ファミ通.comインタビュー「上田文人氏が語る“説明しない”ゲームデザイン」(2016)
【7】 Huizinga, J. (1938). Homo Ludens./Caillois, R. (1958). Les Jeux et les Hommes.
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